幻月の夜

北アルプス白出のコル
1994. 5. 3

Ha-072 
 深夜、穂高岳に月神の降臨を見た。見事な月がさと幻月を従えて、私の眼前に顕われた。稜線を吹き抜ける氷霧がもたらした光の屈折の不思議。手を伸ばせば届きそうだ。見ている者がいることはお見通しだろうか。

 5月1日、吹雪の中をあえぎながら、やっとのことで穂高岳山荘に到着した時、小屋は騒然としていた。悪天候をついて奥穂高岳に向かった登山者が2人行方不明という。夕方になって、捜索に出ていた岐阜県警の山岳警備隊員が帰ってきた。飛騨側の斜面に1名の遺体を発見したがザイルが届かず、天候の回復を待ってヘリで収容することにしたらしい。(もう一人は頂上付近でビバーグしていて無事であることが5月4日に分かった)。
 吹雪は丸2日続き、2泊目の夜半すぎにやっと天候が回復して星が見えてきた。月の出を待って小屋から出たが、まだ風が非常に強く、涸沢岳にすら登れそうもない。仕方なく小屋の前で、晴れ間のある北の空を狙って撮影を開始した。
 露出中、ふと背後の奥穂高の方を見ると、空に不思議な光があった。まるで雪山の向こう側に街路灯でもあって、稜線を走り抜けるガスを照らしているかのようだ。ひょっとしたら、遭難者が懐中電灯で助けを求めているのかとも思ったが、しかし時刻は深夜2時。何とも妙である。一体何の光だろうと考えながら空を見渡すと、昇ってきたばかりの下弦の月のまわりを大きな月暈が取り巻いている。そしてその暈が例の光を貫いている。
 「あっ!」と思った。「こりゃあ幻日だ! いや、月なのだから幻月というべきか…」
 太陽が複数見えるという「幻日」は、氷霧のもたらす非常に珍しい現象である。これはその月光版だった。月による虹「ムーンボウ」は稀に雑誌などで見かけるが、「幻月」は聞いたことがない。その幻が確かに目の前に見えている。
 こうなっては星どころではない。大急ぎでカメラを構え直した。露出の見当がまるでつかず、祈るような気持ちで時間を変えて2コマ撮影したところで、幻の月は消えていった。

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