仙人池再訪記

1993年10月4日〜11日

 深い深い山の奥にひっそりとたたずむ仙人池ヒュッテは、私が今までに宿泊した中で最高の山小屋だ。しかし、そのあまりの遠さ故に、気軽に行くことができない。1993年は仕事の年間スケジュールを組む段階から、体育の日前後をにらんで、無理やり9連休を目論んだ。

●立山室堂へ

 今回の連休は10月4日からスタートしたが、仕事の影響で準備が遅れ、4日夜の出発・立山駅車中泊となった。夜のせらぎ街道を久し振りにぶっ飛ばし、いつも利用する安養寺近くの酒のあるコンビニで缶ビールと握り飯とパンを買い、立山駅に着いたのは深夜1時20分。さっそく握り飯を食べてビールを飲み、助手席側に移って寝袋に潜り込んだ。このパターンだと、長距離ドライブの疲れとビールの酔いですぐに眠りにつけるのだ。
 翌朝1度早くに目覚めたが、それまでの疲労もたたって、予定していた立山の主稜線踏破が億劫になった。軟弱にも、みくりが池温泉で世俗の垢を落とすことにして、もうひと眠り。(こんなことなら5日朝に出発しても同じだった…)
 朝遅い立山駅は団体客でごった返していた。約30分の待ち時間(電光表示システムができて便利になった)の間に、みくりが池温泉に電話予約を入れ、超満員のケーブルに乗った。みくりが池温泉もベッド部屋に数人分の空きがあっただけで満員。予約なしの女性の一人客は断られていた。その空きも夕方には埋まってしまった。
 紅葉は弥陀ケ原あたりが盛りで、室堂は終わりかけていた。天候はずっと高曇りで、見通しは良いが星はダメ。温泉につかって早々に寝た。

●仙人池をめざして

 翌日は剱沢まで入れば良いので、登山としては楽な行程だ。朝食後、ゆっくりコーヒーを飲んでから出発。道草のつもりで、初めて地獄谷を回るルートをとったが、実はこちらの方が近いことがわかってびっくりした。雷鳥坂も快調に高度を稼ぎ、11時少し前に別山乗越に着いた。
 剱御前小舎の前で、パンの残りで早めの昼食をすませてから、またまた道草のつもりで剱御前のピークを越えていくルートをとった。この道はあまり踏まれておらず、ハイマツに道が隠れていたり、小さいながらも急峻なピークが連続していたりで、なかなかハードな面白いコースだった。ピークごとに腰を下ろして眼前の剱岳や大日岳を眺めつつ、剱山荘に着いたのが1時。ここで、2年前に土砂降りの中を仙人池まで延々と苦行を強いられた記憶が甦り、少々迷った末、真砂沢まで行くことにした。
 剱沢の雪溪は例年になく多く残っていて、最初から雪溪歩きを強いられた。この時期の雪溪は表面がガチガチの氷で、下りは軽アイゼンが欲しくなる。谷間はちょうど紅葉が真っ盛りだった。針葉樹が少ないため、全山紅葉の上に険しい岩山が突き出している独特の情景だ。
 3時に真砂沢ロッジに到着。4つの部屋が直列にならんでいるだけの小さな小屋で、一番奥が食事をする部屋、手前の3室が客室だった。土間の引き戸を開けるといきなり2号室で、廊下がないため、1号室や3号室の客が外に出るには2号室の中を通らなければならない。混雑した場合は大変だろう。同宿者は7人で、Mさんという神戸のアマチュアカメラマンと私だけが仙人池行きで、他はすべて下ノ廊下目当ての人たちだった。天候は相変わらずで、夜中に天窓からおぼろ月が見えたが、写真を撮れるような状態ではなかった。
 翌日はゆっくり仙人池を目指した。秋の仙人新道は紅葉が素晴らしい。最初の30分の急登さえ終えれば、あとは比較的なだらかな小さな見晴らしの良い尾根筋を、低い広葉樹に囲まれてだらだら登っていく。その向こうには雪溪の残る険しい裏剱の岩峰が見え、どこか日本離れした風景だ。途中、仙人池帰りの数人とすれ違って言葉を交わしたが、そのうちの一人が第5回白籏史朗賞グランプリ作家だったということをあとで知った。

●仙人池ヒュッテにて

 10時30分に仙人池ヒュッテに到着。さすがに真砂沢からだと余裕の山旅だ。この小屋は、到着するとすぐにお茶が出る。土間で熱いお茶をすすりながら手続を済ませ、おばさんが「風呂が沸いたから入りなさい」と勧めるのを辞して、まずはうどんを作ってもらいビールを飲んだ。その後、ゆっくり風呂につかり、またまた風呂上がりの冷たいビールで極楽気分を味わった。
 道すがら写真を撮りつつ少し遅れて到着したMさんは、まだ小屋にも入らず、池の岸辺でガスの湧き始めた裏剱を狙っていた。あとで私が星を狙っていると言ったら、「ごっつい三脚を持ってきとるのに写真を撮りもせんで、けったいなやっちゃと思うとった」とのたまわれた。
 宿泊客は十数人で、9月の裏剱遭難事故の捜索隊(遭難者の山岳会+剱沢小屋スタッフ)もいた。前回来たとき、雄山神社の巫女さんが剱で行方不明になったと聞いたが、今回の捜索で、その2年前の巫女さんの遺体が発見されたという。雪溪から白骨化した腕だけが出ていて、埋まっていた部分はどろどろに腐敗していたらしい。
 午後、仙人温泉に下った単独行のおじいさんが転倒して足首を捻挫(骨折?)したことがわかり、室堂から山岳警備隊のヘリを呼ぶ騒ぎがあったが、その夜のテレビで「男性、裏剱で滑落」と大袈裟に報道された。天候は次第に悪化し、夜にはとうとう雨が降り出した。仙人池3連泊の初日は、こうして静かに暮れていった。
 翌日は朝から一日中雨降り。仙人池のたたずまいは雨が結構似合う。食堂(談話室を兼ねる)で、ぼんやり雨を眺めたり、テレビを見たり、常連の人たちと話をしたりして過ごした。何もしないのに時間のたつのがはやい。『山岳写真のすべて』で星の写真を発表しているHさんと友人だという人もいた。この雨は北アルプス一帯では雪になり、この日、立山温泉を目指していた雑誌ライターが遭難した。新雪の裏剱を期待したが、どうやらここだけが雨だったようだ。

●久し振りの星空

 夜8時頃、やっと雨がやみガスが切れ始めた。小屋の消灯にあわせて外へ出ると、満天の星空に変わっていた。すぐに月が昇ってきて、早速撮影を開始。8月の穂高以来の撮影だ。
 剱越しにちらりと見える別山は雪で白くなっていたが、残念ながら裏剱は真っ黒だった。Mさんも10時すぎに「眠れん」といって起きてきて、プラクティカの珍しい35mmを出して撮し始めた。撮影方法を聞かれたのでいろいろ教えたら、ベルビアだと最低でも3時間というのにたまげて、シャッターを開けたまま小屋に戻っていった。
 夜半過ぎ、1時間ほどガスがかかった。その間、夜食のラーメンを食べて待機。Mさんも起きてきて撮り直しということになり、またシャッターを開けて小屋に戻っていった。次に彼が起きてきたのは薄明が始まってから30分ほど過ぎた頃で、後で送ってもらったそのときの写真は空が完全にオーバーになっていた。しかし地上が適正になったため、当人は気にいっているようだ。私は結局、朝まで完全な徹夜となった。
 翌日は素晴らしい秋晴れ。午前中はMさんと紅葉真っ盛りの池ノ平まで出かけ、昼ごろ帰途についたMさんと別れて小屋に戻り、風呂に入ってビールを飲んだ。この小屋は連泊者には風呂上がりのビールをサービスしてくれる。特に決まりというわけでもなく、お金を払うつもりでビールを頼んでも「ありがたいお客さんだから…」といって、おばさんはお金を受け取ってくれないのだ(ロング缶でも)。3泊目になると、黙っていてもビールを出してくれるし、昼飯も小屋の人たちが食べるときに「あんたも食べんさい」といって御馳走してくれる。いつも必ずということでもないのだろうが、かえってそれが嬉しい。
 この日は連休初日ということで混雑が予想された。ずっと連泊していた常連の人たち(長い人で1週間)はすっと水が引くように帰っていき、引き続き宿泊したのは私1人だった。天気が良かったこともあって、昼頃からぞくぞくと登山者が訪れ、それは夕方暗くなってからも続いた。
 当初は1人布団1枚の部屋割りだったが、最後に来た数人は寝るところがなくなってしまった。隣の部屋の年配の写真屋さんたちが場所を確保してしまって、いくら頼んでも詰めようとしなかったのだ。最後に来た長野の単独行のおじさんがかんかんに怒って「あの部屋は年寄りが詰めてくれないから、布団部屋でも食堂でも良いから寝させて欲しい」とおばさんと交渉し、結局、若い山屋の多かった私の部屋の布団を引き直すことになった。布団部屋が2人入れるというので、私が長野のおじさんと布団部屋に入ることにして、代わりに3人のグループが私のいた部屋に収まった。宿泊者は70人を越え、今シーズン最多だった。食事は3交替半で、詰めて申し訳ないというおばさんの好意で(といってもほぼ1人布団1枚だったけれども)、全員にビールがサービスされた。
 この夜も引き続き快晴。さすがに前日徹夜の上、昼寝もしていないので体力が持たず、この夜は3時間露出を朝まで3回行い、露出中は寝ることにした。布団部屋で同宿した長野のおじさんもまた、某小屋の陰険オヤジのあの陰険さを良く知っていた。それで意気投合し、二人でひとしきりオヤジの悪口を言ってから寝た。

●帰途

 翌朝、お世話になった仙人池ヒュッテを後にし、帰途についた。雪溪が歩けたため2年前よりかなり早く剱沢小屋に到着したが、いくらペース良く歩けてもやはり剱沢の長い登りはきつい。途中、仙人池を目指す大勢の人たちとすれ違った。仙人池ヒュッテはさらに混雑したことだろう。剱沢小屋も前日は混んだらしいが、この日はガラガラだった。この小屋は、すいているときは1人でも個室をくれるのが良い。夜はみぞれが降ったため、久し振りにぐっすり寝た。
 予備日が1日あったので、翌日は剱岳を往復することも可能だった。しかし夜降ったみぞれで岩が凍結していたので、結局下山することにした。大日岳方面の室堂乗越を経由するルートを下り、昼ごろには立山駅に着いた。
 1週間振りに立山駅に下り立つと、駅前の無料駐車場が異様にすいていた。車が数えるほどしか止まっていない。不思議に思ったが、ともかく登山靴を脱ぎ、ザックを積んで出発。ところがなんと、駐車場の出口が閉鎖されていた。辺りには工事用の資材が積んである。工事関係者と思われる人が近くにいたのでどうなっているのかと尋ねると、逆に「だれの許可を得て入ったのか」と怒鳴られた。駐車場は工事のため1ケ月前から閉鎖されているということで、いわれてみると確かに入口のところにその旨の看板が出ている。しかし、こっちは真夜中に来ているから、そんな看板に気づく筈がない。「それなら真夜中もちゃんと閉鎖しておけ!」と言い返したいところをぐっとこらえて、柵を外して出してもらった。他の車も、私と同じように真夜中に来て、知らずに止めた人たちのものなのだろう。すいている筈だ。新駐車場の完成は1994年の秋になるという。
 こうして、長いようで短かった1週間の山旅は終わった。

* このとき仙人池でご一緒したMさんは、その後、本格的な写真集を出版されたり、
  東京銀座の富士フォトサロンで個展を開催されるなど、アマチュアとしてはトップレ
  ベルの活躍を続けておられましたが、2001年7月に急逝されました。
  謹んでご冥福をお祈りいたします。


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