20代のころは、出かけるなら車で行けるところと決めていた。それが30歳を過ぎてからひょんなきっかけで山登りを再開し、最近は暇さえあれば山に籠っている。10年以上のブランクによる体力の衰えはさすがに大きく、昔のようなテントを担いでの強行軍は夢のまた夢。いまではもっぱら山小屋泊まりだが、再開8年で山中100泊を越え、もはや病みつきである。不惑の歳になって、やはり自分は山が好きだったのだと、しみじみと想う。
北アルプスの稜線で、岩に座って一人ぼんやり風景を眺めていると、いつのまにか時が過ぎてしまう。目の前の自然はあまりに雄大で、自分がまわりに溶け込んでいくような感覚を覚える。これが何とも心地良い。
夜ともなれば、空には満天の星がきらめく。実は、私が山に登る直接の目的はこれだ。以前から取り組んでいる「星のある風景写真」の撮影のため、防寒具を着込んで、今度は夜の風景に浸るのだ。
人類は「地球」という一種の宇宙船に乗って、宇宙を旅していると言ってもよい。星空を眺めることは宇宙船地球号の窓から外を眺めること、つまり、広大な宇宙空間を目の当たりに見ることである。宇宙そのものの実体験とも言えるだろう。
古人たちは、星空を眺めて宇宙に思いを馳せ、自分という存在を見つめ直し、あれこれ思索を巡らした。「夜」という自然現象の体験の中から、多様な文化が芽生えてきたのである。
ところが、いま都会の夜空には人工の光があふれ、星が消え失せてしまった。もはや都会では、宇宙の本来の姿を見ることができない。科学技術の進歩が、皮肉なことに自らの根源を隠してしまったのだ。
確かに、この物質文明の社会にとっては、星が見えたところで何の役にも立たないし、また害にもならない。しかし、根源を知らずして、将来のまっとうな方向性は得られないのではないか。そう思うからこそ、私は焦りにも似た気持ちに駆り立てられて、暇さえあれば山に登って星を見るのである。
1972年、メドウズらは「成長の限界」という報告書で、級数的に増大する人口増加と物質的搾取によって、21世紀には壊滅的な事態がもたらされると警告した。そして、物質的な豊かさよりも、快適さや充足感へと価値観の転換を求めた。それからすでに4半世紀が過ぎ、いまなお事態は悪化し続けている。
人類の長年にわたる自然克服のための努力は、人類存続の必要性からだったはずである。その結果としての地球規模の環境破壊。生きていくために必要な行為が自らの首を締めるという、両刃の剣のようなアイロニー。これにどう対処すべきなのか。
「僕は自然の克服技術を開発する。君は環境保護の方策を考えたまえ」というような分業方式では、もはや無理なのではないか。人にとって必要最少限で、かつ自然に十分許容されるような共生の道を、一人ひとりが模索しなければならない時期ではないか。さらに言えば、実害だけに目を向けるのではなく、物質社会にとって役に立ちそうもない自然環境をもすべて含めたものでなければ、真の「自然との共生」とは言えないだろう。
岡山県美星町は、街灯の光が空に漏れないように笠をかけるなどの規定を盛り込んだ「光害防止条例」を制定した。きっかけは町おこしのための話題作りであるが、現代社会における街灯の必要性を認めた上で、道を照らすための装置としての必要十分条件を満たそうとするものである。まわりのすべての自然環境と共生する方策を、コストをかけてきちんと考えた好例である。
前述のように、「星空」は人類の文化的な営みの根底に横たわっている。なおかつ、物質文明にとっては毒にも薬にもならないものである。だからこそ判断基準になりうる。「星空も自然環境の一部」と考える人が少しでも多くなれば、都会の夜空に星が少しずつ戻ってくるに違いない。
数十年前は、名古屋市内でも天の川が見えたという。都会から星が消えたのは、ごくごく最近のことなのである。人類の長い歴史の中で、夜の環境はあっという間に激変してしまった。奇しくも、ニーチェはツァラトゥストラにこう予言させている。
「いまに人間には星を知らない時がきて、そのときには地球上に末人が出てくるだろう」
まさに瀬戸際であろうか。
<参考文献>
樺山紘一、他編 『クロニック世界全史』 (講談社) 1994
今道友信 『自然哲学序説』 (講談社学術文庫) 1993
ニーチェ/氷上英廣・訳 『ツァラトゥストラはこう言った』 (岩波文庫) 1967
* 本稿は(社)日本建築協会東海支部機関誌 『東海の建築』 No.38 (1996) に寄稿 したものです。
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