北の大地を駆ける

1993年12月28日〜1994年1月8日

●旅立ちまで

 一年前の冬、初めて美瑛の丘を訪れて以来、二ヵ月に一度の割合で美瑛通いが始まった。たいてい始発の飛行機で札幌に飛んでJRで旭川に移動、駅でレンタカーを借りて美瑛で2、3泊して最終の飛行機で帰るという強行軍であった。
 9月頃、カレンダーを見ていたら、正月休みに有給休暇を二日足すと11日間の休日になることに気づいた。これはランクルを北海道に持ち込むしかない。JTBに行く用があったのでフェリーの予約について尋ねたら、年末年始はかなり難しいとの事であった。いろいろ検討した結果、新日本海フェリー新潟〜小樽を利用する事にした。第二希望まで出してほしいというので、往路は12月30日を第一希望、29日を第二希望、復路は1月7日を第一希望、6日を第二希望でJTB半田支店に申し込んだ。予約受け付けは乗船の二ヵ月前からで、予約がとれたら連絡するとの事で、11月の初めまでフェリーの件は保留になった。
 10月にも5泊6日で美瑛に行った。この時も天気があまり良くなくて、また撮り直しをしなければという状態だった。もし正月にフェリーが駄目なら、飛行機かJRという手段を使ってでも行かねばと思ったりした。そうこうしているうちにJTBから12月29日と1月7日の予約がとれたと連絡があった。これでランクルで北海道へ行けることが確定した。

●北海道へ

 12月に入って、ランクルを北海道仕様にする準備にかかった。まず、タイヤはオールシーズンを履いていたのだが、北海道の道路のことを考えてスタッドレスタイヤに換えた。ワイパーブレードもウインターブレードにした。LLCは初めから濃度50%にしてあるのでそのまま。バッテリーも新車から3年ちょっと経っているので、寒冷地での始動性の事を考え新品に換えた。当然の事ながら、ベースのランクルは寒冷地仕様車である。
 12月28日午後8時、撮影器材と3人分のスキー(自分の分2組、kt氏と先輩の分)を積んで、新潟港目指して出発した。長野経由で行こうか北陸道経由で行こうか迷ったが、一人で全区間運転ということを考え、高速料金は高くなるが北陸道で行くことにした。名神は年の瀬ということもあってやや混んでいたが、米原から北陸道に入るとガラガラ状態だった。幸いなことに雪による通行規制は出ていない。順調に走り、小矢部川SAで最初の給油をした。富山県に入ると霙混じりの雨が降り始めた。気温はあまり下がっていないのでとりあえずは安心である。朝日ICを通過して対面通行区間に入ると、長大トンネルがふえ睡魔が襲ってくる。家を出て400q以上走破した。糸魚川を過ぎたところのPAで1時間ほど仮眠し、再び走り始める。長岡で関越道と合流すると、もうそろそろ新潟だという感じがしてくる。6時頃、終点少し前の黒崎PAで1時間ほど仮眠。北陸道をおり8号線バイパスを少し走って、新潟市内に入る。フェリーターミナルの看板を捜しながら市内を走って、8時前にターミナルに着いた。
 フェリーターミナルは、スキーを積んだワンボックスカーや四駆でかなり混んでいた。首都圏のナンバーがやたら多かった。考えてみると新潟は名古屋より東京の方が近いから当然なのだろう。車検証とクーポンを持って、乗船手続きをするためにターミナルビルに行く。すごく混んでいて、クーポンを往復の乗船券に換えてもらうのに30分ほどかかってしまった。手続きを終えてから館内の食堂でトーストとコーヒーの軽い朝食を摂った。これが明朝、美瑛に到着するまでの最後の食事になった。9時より乗船開始。船はニューしらゆり。1万7000トンの大きな船で、船内はちょっとしたホテル並みの設備である。10時定刻にニューしらゆりは新潟港を出航した。小樽港へは明朝4時着。17時間の船旅の始まりである。
 港を出て30分ほどで外海に出た。船はゆっくりとピッチング(縦揺れ)を始めた。睡眠不足の体には、これは大変こたえた。船酔いの始まりである。うとうと眠ってはトイレに戻しにいくという状態で、しまいには胃液まで吐く始末である。日本海はこの時期としては穏やかな方だったと思う。この状態は小樽に着くまで続いた。小樽の街の灯りが見え始める頃には、船酔いもかなり治まってきた。4時定刻に小樽港に着岸。4時20分頃、我がランクルは北の大地におりたった。地獄のような船旅であった。

●雪の丘へ

 小樽港へ上陸したことはいいが、まわりは同じ様な倉庫が建ち並んでいて迷ってしまいそうなところで、小樽インターはどっちにいったらいいかさっぱり解らない。仕方がないので前の車の後をついていってなんとか市街に入り、札樽道という案内看板に従い走っていくとインターに着いた。そこは小樽インターではなくて一区間札幌寄りの朝里川インターであった。市街地の道路はツルツルの凍結路である。特に交差点などはひどかった。
 朝里川インターから札樽道、道央自動車道を経由して旭川鷹栖インターまで高速道路の旅である。全線50q規制であるが、地元の人はおかまいなしにカッとんで行く。私は怖いので60qから70q位で流していった。銭函あたりは高い所を道路が通っているので夜景がとても綺麗だった。しかし道路はヘッドライトを浴びて、キラキラ光っているような状態だったので、下り坂などは緊張の連続だった。札幌本線料金所を通過し道央自動車道に入ると、交通量が少ないのか路面は圧雪路になった。タイヤが良く路面に喰い着く。つい調子にのって120q位で走ってしまった。それでも札幌ナンバーや旭川ナンバーを付けた車にはおいていかれてしまった。北海道で死亡事故が多いのも当然かという気がした。道央道は深川から旭川までは山間部を走る。唯一トンネルがあり、カーブも連続する対面通行区間である。深川から旭川までは慎重に走ることにする。
 小樽から3時間程で旭川に到着。インターを降りて旭川市内へ向かう。市内の道はピカピカのアイスバーンである。交差点でブレーキを踏んでも止まらない。低速でチンタラ走るしかない。旭川の街は連日の降雪で、早朝から除雪に大わらわであった。交通整理の警備員まで出て、まるで道路工事である。R237に入り市街地を抜けると、再び快適な圧雪路である。ほぼ夏タイムで丘の町美瑛に着いた。夏には色とりどりの花が咲き乱れていたぜるぶの丘も雪に閉ざされていた。朝食を食べる所がないので、セブンイレブンでパンを買って民宿おおくぼで食べることにした。

●民宿“おおくぼ”の日々

 民宿に着くとまず犬の出迎えがあった。勝手知った所なので中に入っていくと、ちょうど小父さんと小母さんが食事をしていて、ついでにご馳走になってしまった。おおくぼの小父さんが、今シーズンは雪が多くて現在までに前シーズンの降雪量があるといっている。丘の上も雪が良く締まっているので、もう歩くことが出来るそうだ。曇っていて写真になりそうもないので、山スキーにシールを貼り丘の上を散歩する。十勝の山は見ることは出来ないが、雪の丘の景色を堪能することが出来た。宿に戻り、今度は車で撮影ポイントをまわる。一年前に初めて来たときは地図を見ても迷ったが、今では夜でもすいすい走り回ることが出来るようになった。雪の量も去年に比べるとはるかに多い。ポイントも判っているので、後は天候の回復を待つばかりである。
 昼頃戻り、朝買って食べなかったパンを食べ、一休みしてから旭川へ買物に行った。もちろんJR富良野線利用である。旭川の町は年末の買物をする人で大賑わいであった。ICIで雪用の長靴を買った。現品処分でかなり安く買うことが出来た。暇潰し用に、書店で柴門ふみのエッセイを買った。雪も降ってきたので戻ることにした。
 夕方、大久保の小父さんは、深川でお通夜ができたと言って出かけていった。雪はしんしんと降り続いている。音を吸収するのでとても静かである。とても疲れたので8時頃寝てしまった。
 翌朝5時頃目覚め、外を見てみる。しっかり雪が降っている。しょうがないのでまた寝る。8時頃朝食。小父さんは葬式だといって出かけていった。今日は大晦日、スーパーは午前中だけの営業なので、小母さんをスーパーに連れていってあげた。Aコープ美瑛店は買物の人でごった返していた。忘れ物があったので店を二往復した。kt氏から千歳に着いたと電話があり、3時頃、富良野のホテルにスキーを届けると約束した。薄日が差してきたので写真を撮りに出かける。二時間程で戻ると、kt氏から富良野に着いたと電話が入っていた。小父さんと、一年前も一緒になった大阪の高校の先生が屋根の雪下ろしをしていた。
 スキーを積んで富良野に向かった。国道は所々凍っていて怖かったが、なんとか富良野スキー場に着いた。彼らが泊まっているホテル“ナトゥールヴァルレ”が判らず、それらしいホテルで尋ねたらあたりであった。ホテルは完全なリゾートホテルで、アルマディラの上下に長靴姿でホテルに入るのは大変恥ずかしかった。ここでたいへんな忘れ物に気づいた。kt氏の先輩のバックを民宿に置いてきてしまったのだ。その件は翌日9時必着ということで解決した。それではお茶でもということになり、富良野駅前通りのパーラー“メリーオール”に行った。彼らをホテルまで送り、宿に戻ると6時頃だった。富良野、美瑛間は40分ぐらいで、夏とほとんど変わらない。
 大晦日の夜は一年前と同じ雪の夜になってしまった。こうして1993年は暮れていった。5時に起きて外にでてみるがやはり雪が降っている。1994年の初日の出は拝むことはできなかった。
 正月の朝は、お雑煮におせち料理それにお屠蘇の食事であった。富良野への出発が大幅に遅れ、9時になってしまった。ホテルに着いたら十時少し前で、二人はお待ちかねだった。天気もあまり良くないので今日はスキーをすることにする。正月だというのに、ゴンドラは待ち時間なしという状態である。御岳あたりで一時間近くも並ぶのがアホらしくなってしまう。雪質は最高なのだが、今シーズン初滑りなので体が全然動かない。去年よりへたになったとボヤきながら滑る。雪の降りもひどくなってきたので、二時頃あがった。
 アフタースキーは温泉ということになっていたので、軽くラーメンを食べてから十勝岳温泉“凌雲閣”に行く。上富良野で国道と別れ十勝岳温泉へ向かう道路に入ると、交通量が極端に少ないため雪煙を巻き上げての走行になった。いかにも冬の北海道を走っているという感じがして気分が良かった。一時間ぐらいで凌雲閣に着く。かなり寒い。3人で露天風呂に入っていくと、うら若い女性も入っていた。もちろん水着などという不粋なものは付けていない。何か得をした気がした。今までに凌雲閣には6回行ったが5回も混浴している。混浴したい人は是非凌雲閣に行って下さい。体も十分温まったので富良野に引き上げる。二人は車中で良く寝ていた。7時頃民宿へ戻る。
 1月2日朝、また雪が降っている。今日は富良野へは行かず、美瑛の丘でクロスカントリーの真似事をする。町ではたいして風は吹いていないのだが、丘の上ではかなり吹いている。雪が舞い上がり視界が全然きかない。似たような所ばかりなのでどこにいるかさっぱり解らなくなってしまう。丘の上で遭難してしまいそうだ。2時間ぐらいでやめる。昼になったのでペンションBIBIにいってイクラ丼を食べる。丘のかおり(大豆ブレンドコーヒー)を買って民宿へ戻る。帰ると小父さんが除雪車で雪を飛ばしていたのでやらせてもらった。暇なので庭木の雪落しもした。土地の人にはただの日課なのだろうが、本土から来た者にとっては大変貴重な体験なのだ。
 夜、kt氏から電話がある。あす9時14分に美瑛駅に着くので、美瑛を案内してほしいとのことであった。
 朝、民宿の前をラベンダー号(JR富良野線の列車の愛称)が通過するのを確認してから駅に向かった。二人を乗せて、まずマイルドセブンの丘へ向かった。すごく吹雪いていて何も見えない。記念写真を撮って、ケンとメリーの木、セブンスターの木へ向かう。ここでも写真を撮ってそうそうに車に逃げ込む。雪はますますひどく降ってくる。BIBIへお茶をしにいく。kt氏はプリンが無くてとても残念がっていた。美沢から美馬牛へ抜ける。なんと美馬牛小学校の下のカーブで、雪の壁に激突してしまった。スリップしたとかではなく、雪のせいで壁が全然わからず、道が真っすぐ続いていると思いおもいっきりぶつかってしまった。ランクルはびくともしなかった。ただ雪の壁を破壊しただけですんだ。美馬牛小学校は車中観光、拓真館もパスして富良野に行く事にした。
 1時までにホテルに戻らなければならない。昼食は富良野のレストハウスで、私とkt氏は300gカットステーキ、先輩は200gカットステーキを注文した。時間が無いので、でてくると欠食児童のようにガツガツ食べた。ほとんどギリギリの時間でホテルに到着、彼らの荷物を受け取る。彼らは3泊4日の旅を終えて帰っていった。
 美瑛は吹雪いていたのだが、富良野ではなんと太陽が顔を出している。僅かに一山隔ているだけなのにまるで天国と地獄である。ひょっとして美瑛も晴れているかもしれないと思い、大急ぎで戻る。しかし上富良野を通過すると吹雪になった。仕方がないので宿に戻り、ウダウダして時間を潰す。正月も4日になってしまうと、さすがに焦りがでてくる。このまま一日も晴れないのではないかと不安になってくる。
 大久保の小父さんがスノモ(スノーモービル)に乗せてやるというので乗せてもらうことにした。バッテリーを付けガソリンを入れ、スターターを回すとエンジンは一発で始動した。なんと小父さんはスノモで公道を走っていってしまった。もちろんナンバーは付いていない。新栄の丘の展望台のあたりから丘に上がり、民宿の上までトレースを付けてきた。新栄まで車で行ってそこから乗ることになった。スノモに初めて乗った。巻き上げる雪で前が全然見えない。途中でコースがわからなくなり、出発点に戻る途中でスノモがスタックしてしまった。いろいろ脱出を試みたがどうにもならなくなり、助けを呼びに戻ることにした。腰まで雪に埋まりながら戻っていくと、途中のログハウスから人が手を振っている。近付いていくと大久保さんがいた。上がってこいというので中に入っていく。そこはNさんという横浜から美瑛に移り住んだ人のお宅であった。事情を話すと、まぁひと休みしてから取りに行けばいいから2階に上がって休みなさいと言う。北海道の人はとにかくのんびりしているなと思った。お酒やおせちを出して戴いて、1時間ほどお邪魔をしてしまった。Nさんの家は3月19日から1階を喫茶店として営業を始められた。Nさんの家を辞して、大久保さんと二人でスノモを掘り出しにいく。簡単に脱出できて、ふたり乗りをして無事帰還できた。こうしてスノモ初体験は終わった。
 4日の晩は東海市の人が3人やってきた。ツアーで北海道にきたのだが、一日だけ別行動で美瑛に写真を撮りにきたそうだ。明日からは天人峡に泊まるといっていた。食事の時、同郷ということでビールをご馳走になった。私がここに一週間居るというと感心していた。一日で晴れてしまったら私の立つ瀬がない。今日まで居て一日も晴れていないのだから。夜はやはり雪だった。
 あけて5日、早いもので美瑛最後の日になってしまった。今夜晴れなければ美瑛での撮影は不可能になる。日中も天気は良くないが走り回る。夕方になり、雪が止んで西の空が明るくなってきた。なんとか写真が撮れるかもしれないと思い、マイルドセブンの丘に急行する。マイルドセブンの丘とセブンスターの木で撮影することができた。
 夜、食事を終えて外にでると星がでている。撮影準備をしてマイルドセブンの丘に行き、取りあえず1コマ撮る。ガスってきたのでしばらく様子をみて、美馬牛小学校へ移動。晴れてはいるが塔の上に星が無い。かまわず撮影する。3コマ撮って再びマイルドセブンの丘に移動。6コマほど撮影することができた。気温ははっきりわからないが−20℃位まで下がったかもしれない。
 6日朝、今回美瑛にきて初めての青空である。しかし美瑛を発つ日でもある。夜の撮影が終わってからすぐに宿に戻って寝てしまったので、日の出は見ることはできなかった。少々残念な気がするが、夜の撮影ができたからよしとする。
 土産用にジャガイモを買う。大久保の小父さんに近所の農家の人を紹介してもらっての直売である。20s1500円である。60s購入した。4500円のところを4000円に負けてくれた。
 小父さんの車が、昨日、暖気運転中に止まってしまってから始動しなくなった。小父さんといろいろさわってみたが全然始動しない。小父さんは仕方がないので旭川のデーラーに直しにこいと電話した。車で新年会に行けなくなってしまったので近くの会場まで私が送っていった。帰ってからしばらくするとデーラーから電話があった。小母さんでは車の事は全然わからないので私が代わりにでる。車の状態を説明すると、マフラーに雪が詰まっていないか見てくれという。その車はよくマフラーに雪が詰まるということであった。そこで車を見てくるとしっかり雪が詰まっていた。もし始動しなかったらまた電話するといって電話を切った。マフラーの雪を鉄棒で取り除き、バッテリーは上がってしまっているので、ランクルからブースターケーブルで助けてやると見事に始動した。昼を過ぎてしまったので小母さんがお雑煮を作ってくれた。小父さんが帰ってきたので、しばらくエンジンを掛けたままにしておく様にという。マフラーの雪は車庫からバックした時に詰まったものらしい。去年は一度もなかったというから、今年はそれだけ雪が多いという事なのだろう。3月中旬で美瑛の累積の積雪は9mという事だ。
 荷物を積み込んで、一週間お世話になった民宿“おおくぼ”を出発したのは2時少し前だった。

●北海道を去る日

 美瑛をでて旭川へ向かう。この丘の風景とも、しばらくのお別れである。朝は見えていた大雪、十勝の山も雲に覆われている。名残惜しいが仕方がない。旭川市内が少し混んでいて、旭川鷹栖インターに着いたのは3時を少し過ぎた頃だった。道央道を順調に走り、札樽道を経由して小樽インターを降りた時には、すっかり夜になってしまっていた。6時頃、“小樽国際ホテル”にチェックインした。小樽観光はもうあきらめである。札幌まで買物に行き、閉店間際に六花亭のバタークッキーを買うことができた。ついでに薬局で乗り物酔いの薬を買った。小樽に戻り、寿司を食べようと寿司屋横丁を捜すが全然わからない。歩いている途中、転倒までしてしまった。寿司はあきらめてラーメン屋にはいり、海産物が山盛りになったラーメンを食べた。なかなか美味であった。ホテルに戻る途中空を見上げると満天の星空であった。しかし、小樽の町は全然わからないので撮影はせずに、おとなしく寝ることにした。
 6時頃目覚め、窓から外を見ると昨夜の静かな夜は嘘のような大荒れの朝であった。空からは粉雪が降りしきり、地上では強い風の為に地吹雪が起きている。道を行く車は、ヘッドライトをつけゆっくり走っている。そんな中で除雪車だけが、せかせかと走り回っていた。
 レストランで朝食を摂って、部屋に戻りテレビを見る。ニュースで北海道は雪のために大荒れだと報じている。道央道、札樽道は全線通行止め、新千歳空港は閉鎖、JRはかなり遅れがでている模様。昨日のうちに小樽に来ていて良かった。もし今朝、美瑛を発ってくる予定だったらフェリーに乗り遅れたかもしれない。猛吹雪の為、小樽運河の観光も中止。NHKのかりんを見てからホテルをチェックアウト。ランクルはホテルの車庫に入れてあったのに、雪が10cm程積もっている。車庫は当然屋根つきである。雪を払ってフェリー乗り場へ向かう。視界が効かないのでライトを点けてゆっくり走ったが、10分ぐらいで着いた。

●終章

 小樽のフェリーターミナルはガラガラであった。ここでは乗船手続きをしなくても良いので、すぐ乗船することができた。船は行きと同じニューしらゆりであった。船室に入り自分の場所を確保し、酔い止めを飲んだ。出航時間になっても船は出航しなかった。乗船が遅れていますので、乗船が済み次第出航しますとアナウンスがあった。蛍の光のメロディーが流れ、岸壁を離れたのは11時を過ぎていた。再びアナウンスがあり、天候が悪いため相当の揺れが予想されるので、乗り物に弱い人は覚悟して下さいというような事を告げた。また新潟への到着時間についても、大幅な遅れが予想される為あらかじめ御了承願いますとも告げた。ワクワクしてしまう船出であった。
 港を出てしばらくすると、船は激しく揺れ始めた。窓から外を見ると、7,8mの波の中を航行していた。高校生の団体が騒いでいたが、昼食が済む頃には静かになってしまった。私は快調である。船酔いの心配は全然なさそうである。食堂はカフェテリア方式で、メニューは和洋中おまけにデザートまであった。昼食は海老ピラフ、野菜サラダ、フルーツムースを食べた。値段も安くて、味もスキー場の物よりはるかにおいしかった。
 船室ではかなりの人がダウン状態である。暇なので売店をのぞく。売店のマリンレディは、船が揺れるたびに並べてある品物が崩れるので大忙しである。一瞬、船体が宙に浮いた。次の瞬間、船体はドーンと海面に叩きつけられた。ガラガラと売店の品物が床に崩れ落ちた。売店のマリンレディは「もう、やってられない」というような顔をしていた。仕事とはいえお気の毒としか言いようがない。2時から入浴タイムなのだが、もちろん風呂は入ることはできない。行きに入ることができなかったので、残念であった。船室に戻って、柴門エッセイを読んで時間を潰す。
 夕食は野菜サラダ、イカの鉄砲焼き、ホタテの唐揚げ、ご飯の大盛り、デザートにフルーツムースを食べてしまった。イカはうまかったがホタテは少しくどかった。食後はロビーで時間を潰す。船の揺れもかなり収まってきた。船内は10時消灯である。少し早いが9時頃寝てしまう。
 朝4時頃目が覚めてしまった。新潟到着が6時頃の予定なのでまだ時間があるが、眠れないので、そっと起きてロビーにいって外を眺めている。波は静かである。5時頃船内に灯りがともる。寝ていてた人も起きだして、船内は騒つき始める。6時頃新潟港に入港、車を固定してあるワイヤを外す音が聞こえてくる。まもなく岸壁に着岸、そして下船開始。長かった船旅も終わった。そして11日間に及んだこの旅もいよいよ終わりである。
 港を出て北陸道黒崎インターへ。北陸道をひたすら走る。新潟は曇っていたが、柏崎あたりまでくると快晴であった。青い日本海が良く見えた。米原から名神に入り一宮まで走る。22号、東名阪を経由してYhさん宅に2時頃到着した。これで今回の全行程終了である。
 事故といえば1月3日に美馬牛で雪の壁に激突しただけで済んだ。とにかく無事に帰ってこれて良かった。全行程で2300qあまり走破した。また機会があれば、ランクルで冬の北海道に行ってみたいと思う今日この頃である。


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